益田のつぶやき

⑨往生際の悪さ

2018.9月末日

1980年代以降使われてきたsustainabilityという言葉ほど重要でありながらあいまいな言葉はない。情緒的で客観性に乏しく、いかがわしくて押しつけがましいと感じる人も少なくない。今の時代を批判的に解釈するうえで欠かせない、グローバリズムや格差社会、環境問題など、他の言葉は抵抗なく使えるのに、サステナブルとかサステナビリティはなぜ「いかがわしい」と感じられるのだろうか?その原因は「持続可能」という日本語訳にあるのだ。Sustainabilityという言葉には続けられる、維持できる、耐えうるなどの意味があるけど、今の世の中を語る言葉として使われる場合に限って、実は、私たちの今の文明社会はもはやこれ以上続けられませんよ、次はどうしましょうか?という前置きがあってのことなのだ。それを日本語で持続可能と言い換えてしまうと、今の社会や経済や暮らしやらを何とか続けるためにどうしたらよいのかという議論にすり替えられてしまう。「さあ、おじいちゃん、お迎えが来ましたよ、遺産はどうしますか?」と聞かれているのに、「まだまだ未練があるから金借りてでもなんとかならないか?」とごねている往生際の悪さは、日本の言葉の美学にそぐわない。

 

曲がったストロー

2018.8月末日

世界中でプラスチックのストローを使わない運動が拡大中だ。鼻にストローが刺さった亀かなんかの写真が引き金だとかいうけど、発端は何であれ、なぜストローなのだろうか?
もともとストローはその名の通り麦わらだったし、1950年代までは紙製の筒だったのだからそれに戻せばよいわけで、現に今でも普通に買える。
東南アジアでは細いバンブーを使うし、別にプラスチックである必要はない。吸い口の近くが蛇腹になっていて曲げることができるのは、一杯のジュースか何かを恋人同士で飲むために工夫されたデザインなのだけど、曲がらなければお互いの額が近くなってますます結構なはずだ。最近は使い捨てない金属製やガラス製のマイ・ストローも売られているが、あの細い管の中をどうやって掃除するのかと考えると、あまりいただけない。

いずれにしても、ストローが無いからといって特に困るものではないし、やめてもらっても一向にかまわないのだが、その前に使い捨てプラスチックのカップや蓋をやめなければだめだ。間違ってもストローなしでも飲みやすいプラスチックの蓋なんかをデザインするのだけはやめてほしい。これ警告ですよ。

氷も溶ける暑い熱い夏の戦い

2018.7月末日

大変な暑さである。それに加えて洪水、竜巻、旱魃と、次から次へと異常気象のニュースの嵐だ。WMO世界気象機関は7月17日ノルウェー北部の北極圏で33.5℃を記録したと伝えている。もちろん観測史上最高気温だ。北極圏の海面温度が急上昇し、高さ100メートルを越える氷山が漂流し始めて海辺の村に迫るような事態も起きている。
こうして、1980年代からずっと言われ続けて誰の耳にも「聞き飽きダコ」ができた地球温暖化が理屈ではなく現象として現れ始めると、にわかに元気づく連中がいる。
その時儲かっていれば、将来何が起きようとそんなことはどうでもいい、不都合なうわさ話に耳を貸して金儲けの機会を逸するなどは愚の骨頂であると思っていた、その同じ連中が、危機を目の当たりにするや翻然、投機買いに走るのである。
「大氷山を削ったかき氷を売って村を救おう」ぐらいのことは平気で言うし、実際にやって見せるかもしれない。私はこういう馬鹿垂れ人間が大好きだ。好きすぎて抱きしめて絞殺してやりたいほどだ。

しかし、本気で許せないのは、何をすれば気候変動につながり、何をしなければそれを防げるのか、すべて承知の上で地球温暖化シナリオを仕組んできた連中だ。そいつらの裏をかくための戦略と戦術こそがサステナブルデザインなのだ。さあ、いよいよ暑い熱い戦いの幕が開く。

⑥コミューン

2018.6月末日

都会のビルが取り壊されると、気取った街並みの裏側が丸見えになるから面白い。東京青山通り、表参道の交差点近くのぽっかりあいた空き地に、仮設の飲み屋や屋台がいくつも建って、テントの中には雑多な椅子やテーブルが並んでいる。ちょっとした路地や自由大学という学校まであるその界隈(かいわい)にはCOMMUNE 2ndという名がつけられている。
ここで昼からビールを飲んでいると、宮城県石巻の津波で穴だらけになった街角に生まれたビニールテント街を思い出す。あの頃店を開いたのも客としてやってきたのも若者たちが多かった。金を持たない空腹はたまたま居合わせた大人が満たしてやっていた。そこには、同じ体験や想いを持った人たちが自然に集まる小さな共同社会、コミューンのような空気感が満ちていた。
都会には常に表と裏があって、面白いのは裏の方に決まっているから、表面に穴が開くと人が集まってくる。日本はこれから人が減って、街の様子も変わるだろう。地価が下がって空き地が増えたり、ピカピカの看板が古びたり、ほころびが目立つのは歴史のなせる業だからよしとして、水や施設の安全など、これまで築いてきたインフラを根気よく整備しながら隙間が多くて風通しの良い街に変わってゆけたらいいと思う。

⑤ヘッドハンター

2018.5月末日

最近仲間と話していて、求人難の昨今、ちまたでは転職を仲介するヘッドハンティングが横行しているという話になった。すると同席していたインドネシア人が、ボルネオ島にはまだ本物のヘッドハンターつまり首狩り族がいるという。

太平洋戦争中には侵略する旧日本軍の首も取ったという勇猛果敢なイバン族の長老の中には、一つや二つ狩った経験がある人がいて、そのコレクションを見せてもらうこともできるらしい。面白いのは、インドネシアでは今でもカリマンタン(ボルネオのインドネシアでの呼び名)出身の男性と娘が結婚することになると、家族は妙に緊張して気を遣うらしい。

ここではヘッドハンターが主役なのだが、リクルート的にはヘッドハンティングされるほうが話題の主だ。しかし、その人は以前の会社で頭に例えられるような賢い仕事をしていたから競合会社などに目をつけられて狩られる訳だが、切り離された首が元の体に付いていた時のように役に立つかどうかはなはだ疑わしい。

頸のすげ替えで増えるのは奇妙なコレクションばかり、というようなことにならないものかと、どこから頭でどこから胴なのか判然としないミミズのようなフリーランサーは余計な心配をするのだが。

④花粉病

2018.4月末日

大学時代の数年間を杉木立の中で過ごした後、卒業して都会に住むようになってから発症し、以来40年以上花粉症を患っている。当時は原因も分からず病名もなかった。洟が止まらず鼻血が出るから耳鼻科に行けば鼻炎、目が痛痒くて眼科に掛かれば結膜炎、咳やくしゃみが出て頭痛がすれば内科で風邪だろうと言われた。

年季の入った花粉症患者である私の場合、毎年暮れには兆候が表れ、スギにはじまりヒノキへと乗り換えながら、桜が散るまでの三か月余り、三寒四温の歩調に合わせ、マスク、目薬、箱ティッシュ、鼻洗浄に抗ヒスタミン剤と、薬局の季節商品を買いあさる春がやってくる。

戦後、杉の苗木を植えさえすれば一本いくらで補助金が出たので、山といわず谷といわず、岩の上に土をかぶせてまで隙間なく植えたという。誤った植林政策の結果、これだけ長い年月、延べ何億人もの患者に苦痛をもたらしてきた国民病をいつまでも花粉症などという無責任な名前で呼ばないで、潔くも重々しく「花粉病」と名付けるべきだと主張したい。

私は今日もまた、水をはった洗面器に顔を浸けて目玉をパチクリ洗いながら、花粉などとは縁のない金魚であった前世を懐かしんでいる。

③壁がこわい

2018.3月末日

7年目の3.11がやってきた。津波が襲った翌月に宮城県の石巻にボランティアで入って以来、被災地に何十回と通いながら被災地の変化を見てきた。人口減少と過疎化が進む日本の中で、あの災害をきっかけに失ったり離れたりした人が戻ってくるということは考えにくい。復旧とか復興とかいうけれど、本当は元に戻すのではなく、これまでとは違う新たな町づくり、新興でなければならないはずなのだ。コンパクトで住みやすい町、将来に向けて持続可能な新しいコンセプトの町づくりが行われるべきだとずっと考えてきたし、そういう意味でのお手伝いがしたいと思って通ってきた。ところが実際には広大な空き地の先に津波除けの巨大な壁がどんどん建てられている。総延長数百キロという三陸のリアス海岸から福島にかけて高さ10~15メートルの壁や堤を建て込んで、海の見えない町を作っているのだ。理論的にはすでに起きてしまった東北以外の、今後津波が来るかもしれない日本中の海岸に同じものを作らなければおかしいわけで、だとすれば2万キロを超える。地球一周の半分の長さだ。自然と共生するサステナブルな社会などと言いながら、全く逆なことを平気でやるこの国のセンスのなさには情けないのを通り越して恐怖を覚える。津波も怖いがもっと怖いのは自然に抗って勝てると思っている人の心だ。


②ブルネイ

2018.2末日

ブルネイに行ってきた。Brunei Darussalam(ブルネイ・ダルサラーム=サンスクリプトとアラビックで「船乗りの安らぎの住み家」というような意味)が正式名称のこの国はマレー半島の東にあるボルネオ島の北西の端に位置する小国だ。
インドネシアではカリマンタンと呼ぶこの大きな島の北西部はマレーシア領になっているのだが、その中の海際にちょこんと飛び地のように存在する、三重県ほどの大きさの独立国だから普段あまり話題にならない。
でも、東南アジア一の金持ち国だとか、税金がないんだとか、サルタン(王様)が自動車好きで世界の高級車1000台のコレクションがあるとか聞くと、ああ、あの国か、と思い当たるでしょう。
たまたまサルタンのおうちの前の海で石油が湧くことにイギリス人やオランダ人が目を付けたことから始まった石油産業が人口40万人のこの国を豊かにしているのだが、そこで一体、私は何の話をすればよいのか、珍しく悩んだ。
石油に頼っている経済はサステナブルではないですよ、なんて言ったところで、その最大のお客が日本なのだから話にならない。でも、本当のことだからそう言った。

そうすると、美しいヒジャップを身にまとった女性の姿が目立つ聴衆は、「その通り」と頷くのであった。お金持ちは上品で優しく賢いということを知らされた旅であった。
それに引き換え腹を減らした私たち日本人一行はレストランに急ぐあまり美しい芝生で仕切られた高速道路を走って横切るという愚挙を犯してしまった。自動車専用道路は高架か、せめて柵があるだろうという日本の常識は単なる思い込みであるということを思い知らされたのである。

 

①アレッポの石鹸

2018.1月末日

私は風呂ではもっぱらアレッポの石鹸を使っている。たまたま店で見た時になんとなく良さそうで、使ってみたら思った以上に良かったから手放せなくなった。説明書によると何千年も前からシリアに伝わるやり方でオリーブとローレルの油から作られる石鹸ということなので、なるほどと納得していた。

ところが、ニュースによるとアレッポはISISの活動拠点らしい。そこで作られる決して安くない石鹸を何十個も買いたしてきた私の金は、もしかしたら彼らの活動資金になっているのだろうか、という疑問がわいてきた。私が毎日風呂で泡だらけになるたびに誰かの命が奪われて行くのだとしたら極めて不愉快だ。しかし、もしかしたら石鹸職人とその家族たちはISISの支配下でも必死で石鹸を作り続けることでなんとか暮らしてゆけているのかもしれない。それなら応援しなければならない。さて、どうしたものか。 

最近、エシカル・コンサンプション、つまり倫理的消費という言葉をよく聞くようになった。倫理的に正しいと思う物やサービスを使おうということなのだが、さて、こんなとき、どうやったら倫理的に正しい行動がとれるのだろうか。

私の場合は調べることにした。まず、石鹸のラベルに表示されている輸入元や発売元に電話をかけて聞いてみる。通じなかったり、知らないと言われたりで、らちが明かない。ネットや広告など片っ端から調べてゆくが分からない。

使っている石鹸が段々ちびてきて、このままゆくと風呂で体が洗えなくなってしまうという頃に、ある薬屋の店頭で山積みになっているアレッポの石鹸を見つけた。表示にあった、いつものとは違う電話番号にかけてみたところ、やっと事情がわかった。

その石鹸の作り手は戦乱のアレッポを抜け出して隣国に逃れ、苦労の末同じ製法で作り続けているとのこと。ああ、それならばと倫理的に納得して5、6個買ってきたので、安心して泡だらけになれる。

しかしながら、ISISの側こそ倫理的だと考える人も少なからずいるということを考えると、倫理的消費と言ってもなかなか一筋縄ではいかないのが悩みだ。