益田のつぶやき

46.フクラスズメ
2023.9月末日

毎年夏の終わりごろになると、オープンハウスの周りの草むらに、フクラスズメという蛾の幼虫が大量発生する。すると、たくさんのカマキリが飛んできて、片っ端から食べて行く。フクラスズメの幼虫はちょっと突くとものすごい勢いで頭を振るのだが、カマキリはお構え無しにかぶりつきムシャムシャと、それは旨そうに、跡形もなく食い尽くす。何のために生まれてきて、草をたっぷり食って太ったと思ったら食われなければならないのか、考えさせられる。それでも生き残るのがいて親の蛾になるのだろうし、カマキリにとってはなくてはならない食糧なのだろう?

まあ、もう少しするとここには村人たちがやって来て、芽を出したばかりの山菜を片っ端からちぎって持って行って、旨い美味いと食ってしまう、フクラスズメの幼虫はカマキリにとっての「秋の七草」だと考えれば妙に納得する。

45.何も知らずに大食い競争

2022.3月末日

日本の食料自給率はどんどん下がって今は37%だ。つまり日本人が食べてるものの3分の2近くは輸入した食糧だということになる。

国産の穀物は、米は100%だけど、小麦は16%、大豆に至っては6%しかない。その小麦がどこかのプーさんのお陰で出回らなくなるから世界中で取り合いになって日本まで回ってこなくなるかも。

パンやうどんやお好み焼きなんかはもちろんだけど、輸入穀物はほとんどの加工食品に使われているから、いろんなものが作れなくなる。

肉だって国産の餌で育つ牛は11%、ニワトリは8%、豚はたった6%しかいなくって、そいつらは人間よりたくさんトウモロコシや小麦を食うというから、そのうち肉だって食えなくなる。

そんな内容の番組をテレビで見ていて落ち込んで、チャンネル変えたらタレントが「めちゃ旨い―」とかいいながら大食いして騒いでる。で、コマーシャルになったら肉ジャージャー焼きながらビール飲んでる。

ッたくこの国はどうなってるんだ。今夜は絶対玄米にして、あとは味噌汁の味噌も豆腐も納豆も輸入大豆だからやめといて・・・。食うものないじゃないかあ。とほほ。

44.お役所の仕事

2022.2月末日

お役所と付き合うと、民間とは常識がずれていて、戸惑うことがいろいろあって刺激的だ。時には幻想的ですらある。

昨夜、市役所から素焼きの大皿が一枚送られてきた。送り状には、「これに絵付けして地域の魅力をプロモーションするお土産品の組み皿をデザインして下さい。素焼きの皿は画像処理のためのベースにしてください。組皿の枚数やテーマは自由ですが、地域の自然や文化を表現した色や柄が求められます。ご提案いただいたCG作品は審査の上、試作され、市民アンケートによって製品化が決められます。」と書いてあった。

賞金や製品化に当たっての契約の条件とかは何にも書いてなかったから、「どうせ『はい、ありがとうございました。』でおしまいなのだろう、放っておこう」と思って、そのまま眠ってしまった。ところが、絵や柄をつけずに釉薬の色だけで春夏秋冬を表す4枚ぞろいにするならば・・・里山の雪景色の白、夏の島の海の青、春は新緑の明るい緑がいいか、桜のような淡い赤地に白い釉薬がかかった萩焼き風がいいか、それとも芽吹き前のフカフカな黒土色の風合いが出せるのか、などと考え出してしまって、結局朝まで眠れなくなってしまった、という夢を見ていた、・・・という夢を見た。

起きたら手元に何もなかった。

43.物の価値

2022.2月末日

物の価値って何だろうかと考えてもらちが明かないから、値段に変換してみようと考えた。物にいくら払ったかで価値を決める。いくらで売れるかという値段ではない。今日スーパーで買ったでっかいカブは97円だった。安い!でも食べてしまえば栄養になるからいいとしても、カブはなくなってしまう。一本80円の鉛筆も、40円の消しゴムも使ってしまえばおしまい。ところが、一昨年まで使っていた腕時計は20年以上前に買った時には2万円ぐらいだったと思うのだが、ベルト交換と修理代で3万円ぐらい掛かっているから払った金額は2万円+3万円で5万円。交換部品がなくて動かなくなったから新しく買わなくちゃなあ、と思いつつ引き出しをひっかきまわしていたら、以前安売りショップで参考資料として1,500円で買った腕時計が出てきた。動けばいいやと使っていたら電池が切れたので、今日駅前の時計屋に行って電池交換してもらって1,100円掛ったから腕時計の価値は2,600円になった。今乗っている車は20年ぐらいの間に27万キロ走っているから、リッター10キロとして27千リットルのガソリン代と20年分の車検、修理、オイル交換、タイヤ交換、メンテナンス費用を合算すればラクサスだかリクサスだかの新車より価値がある。そんなものもったいなくって捨てられるはずがないじゃないか。

42.嗅覚

2022.1月末日

去年の6月末に二度目のコロナワクチンを打ってすぐに嗅覚が消えた。
いわゆる副反応かな、匂わない。医者も分からないと言うが、祖母が全く鼻の利かない人だったから、ワクチンが隔世遺伝のトリガーをひいてしまったのかも知れないと思っている。

匂いの消えた空間は静かだ。清涼な空間には澄んだ空気に、爽やかなそこはかとない香りが流れているものだ。
ところが全くにおいが消えた世界は空気そのものも消えたように、静謐な時が流れるばかりで、空間を感じる意識が希薄になるようだ。

日常生活には別に不便はないようだが、何かを食べようとすると変だ。物の味とは味覚と嗅覚が混じりあって感じるものだという事が良くわかる。
匂いがしない味覚だけだと不味いと感じるものがある一方、においが消えることで味が際立って感じられるものもある。
前者の代表はカレーである。適当な食材の取り合わせでもカレーソースで何でも美味しく感じていたことがよくわかる。匂いが消えるとそれがばれる。
後者の代表はコーヒーだ。コーヒーから香りを消し去るとただのお湯だと思っていたが、確かにそういう豆もあるが香りがなくても美味しい豆もあるのだ、という事に気づかされた。

何やらウンチクのある話のようだが嘘くさいと思った人は、においを消してみるがいい。

㊶オリンピック報道ヤバいぜ

2021.8月末日

テレビ番組がほぼオリンピックに占領されてしまって、しかもそのすべてが日本代表選手の試合ばかりだ。つまり、どのチャンネルも同じ場面を流している。これは全く信じられない。オリンピックと政治は切り離すべきだと言いつつオリンピック報道そのものが国威高揚のプロパガンダに使われている。

太平洋戦争の最中、圧倒的に優勢な連合国に対する劣勢を封印し、連戦連勝の嘘っぱちをがなり立てていた大本営発表のラヂオ放送、戦争記録映画と全く同じ仕掛けだ。局地戦には勝利しているように見えて、根本的な過ちを犯していることに気づかないし、気づかせない。

オリンピック主催国の役目とは何なのだろう。大変な金と努力を払って世界中の運動選手を呼び集め、それを応援する人々を世界中からお招きし、大いに楽しんでいただくことか?いわゆるスポーツ大国の選手と、名前も聞いたことがないような小国の選手が同じ条件で競技する機会を作って、世界中の人々が分け隔てなく応援し、互いに認識を共有し、理解し合うことか?まあ、仮にオリンピックという催事にそうした意義があったとしてもだ、今この国にいる外国人は、テレビでは勝っても負けても嬉し涙や悔し涙にくれながらお互いに抱き合い、感情を高ぶらせる日本人の異様な姿を見せつけられるのに辟易して、夜中までネット配信される自国や他国のニュースを探している。

新型コロナウィルスから逃れるために作ったバブルの中で競技大会を行っているつもりで、実はもっと巨大は精神的ドーピングのバブルの中に日本は閉じこもろうとしている。目を覚ましてバブルに穴を開けなければならない。

㊵ミミズのコンポスト

2021.3月末日

楠のオープンハウスの事務所には「金子みみずちゃんの家」が置いてあります。

多分、金子という名字のミミズたちがたくさん住んでいます。

詩人金子みすゞは山口の人で、金子みみずちゃんの家は広島のものだから関係ないとは思いますが、せっかくなので金子みすゞ風に紹介すると・・

うちのミミズの棲む家は、黒くて四角い二階建て。

窓は一つもありません。

ふかふか黒い土の中

冬はぽかぽか温かく、夏はひんやり涼しいけれど

雨の匂いが伝わらなくて

少し寂しくなるのです。

その家で3年間、3000匹のミミズたちが世代を次いで暮らしてきました。

私が食べ残した野菜の皮や果物のヘタ、お茶ガラなどを食べてくれます。

ミミズのフンはそのまんま、ふかふかの土になるのですが、オシッコを受けるために床下に置かれたカップには今まで何も溜まりませんでした。

ずうっと心配していたのですが、最近にわかにたっぷりときれいな黄色い液体が溜まりはじめました。

いったい何が起きたのか、それは誰にも分かりません。

㊴鰆の塩焼きサンド

2021.2月末日

夢で知り合った友人2人と寮を出た。とりたててどこへ行くとか何をするという目的があるわけではないけれど、虫たちも土の中から顔を出す啓蟄の暖かさに誘われて、ずいぶん久しぶりに外に出てみたかった。いい年をしてお人好しが染み着いてしまった無口なAと、若いけど流行おくれの服を着て金髪に染めたあかるいBが、私の誘いに乗って表通りに飛び出した。何年かに一度やってくる大規模なパンデミックがやっと少し収まって、久しぶりに見る外の景色だ。人気がないけど自然も都会も前のまんまだ。Aはのんびりと、Bは歌を口ずさみながら思い思いに歩き始めて昼時なのを思い出した。目の前の大きなビルにいくつかの店があるはずだから入ってみる。

以前あった店はみな閉まっている。最上階まで行くとそこは見慣れぬ食堂だった。店主が「今日は鰆の塩焼きサンドですよ」と言う。メニューはそれ一品だけ。値段は1,000円。見本があって、活きの良い旬の鰆の分厚いフィレをシンプルに焼いたやつがサラダと一緒にバケットに挟んである。うまそうだ。でも千円札なんか持ってるはずがない二人は困惑した顔をしている。主人は塩もオリーブオイルもいいものを使って丁寧に焼くから時間がかかるけどいいか、と聞く。一瞬言葉に詰まったら素早くオーダーを通されてしまった。周りを見渡せば金と時間の使い道に困った連中がたくさんいて、悠長に出来上がりを待っている。こんなことなら寮で無料の焼き魚定食でも食ってくるんだった。

㊳社会人

2021.1月末日その②

「社会人」というのは世界中で日本にしかない変な言葉だという。今年はあまり派手にできなかったけど、成人式で来賓の誰かに「皆さんも今日からは社会人として、うんぬん」と言われたり、親父に「お前も、もう社会人なんだから、うんぬん」と言われたりする。「社会人なんだから、一人前の大人として自覚を持って社会生活をしなさい」とか、「社会人なんだから、早く就職先を見つけて独り立ちしろよ」、という話だ。社会の一員として正式に認められたのだから、社会と同調して与えられた役割を果たしてゆく責任がある、それが日本人が考える社会人というものなのだ。

しかし、逆の言い方をすれば、子供は社会人ではない。親がかりでいるうちは社会人ではない。病気だったり、障害があったりして、決められたとおりの仕事が出来ない人は社会人ではない。住居不定の自由人や親の世話を焼く孝行娘、ボランティア活動家や絵描きや詩人、哲学者なんかもそれで金が作れなきゃ社会人じゃなんだな。

要するに、「日本型の社会」というものが先にあって、普通(って何だ?)の人が成長(って何だ?)すると「社会人」と認められてその中に入れてもらえるという仕組みらしい。

世界では、いろんな人がいて、いろんなことをしながら、なんとかかんとかやりくりして生きている状態を「社会」と呼ぶ。日本の「社会人」はそういう自由な社会では生きて行けないな。

㊲酉(トリ)を想う丑(ウシ)

2020.1月末日

コロナで年が暮れ、コロナで年が明けたけど、ウィルスでひどい目に遭っているのは人間ばかりではない。ニワトリたちも鳥インフルエンザにかかって大変だ。新型コロナウィルスは蝙蝠から人にうつったらしいけど、ニワトリも野生の渡り鳥からうつされたらしい。

人間は3蜜にならないように気を付けて、それでも感染してしまったら、あらゆる手を尽くして命を助けてもらえる。それなのにニワトリは、身動きできない鶏舎の中にギュウ詰めにされた挙句、一羽でも感染しようものなら皆殺しだ。片っ端からポリバケツに放り込まれて、ホースで二酸化炭素を注入されて終わり。すでに600万羽が殺処分されている。

どうせ、生まれて50日経てばトリ肉にされるか、卵産むだけ産まされて、産めなくなればつぶされて、唐揚げかフライドチキンになるんだから同じコト。所詮人間に食べられるために生まれてきて飼われているんだからしょうがない。アニマルウェルフェアとかいう、せめて短い間でも居心地のいい小屋で飼いなさいという分かったような分からないようなご配慮も、鶏卵業者から500万円もらった農水大臣に握りつぶされたらしい。

まあ、人間に生まれなかったんだから諦めなさいということですね。それは僕らも同じこと。万一今度人間に生まれ変わっても、僕らはやっぱりビーガンかな。

㊱命のやりとり

2020.12月末日

おでんを作っていて煮こぼしてしまった。慌てて拭いた布巾を洗っていて、ふと思った。

この部屋にも、床の片隅や、カーテンの陰や、空気中に目に見えないたくさんのバクテリアや細菌やウィルスが棲んでいる。屋根裏や外壁にはイモリや蜂や蜘蛛が巣をつくっているだろう。隣の田畑では、トビイロウンカに食い尽くされた稲や、豊作だった白菜を育てて今は休息中の土の中で、虫たちの子どもが眠っている。その向こうの森の木や草にも、川にも海にも島にも砂漠にも、空の風や雲の中にも数えきれない生き物が満ちている。

その中の一個の動物が、「おでんの残り汁にご飯を入れると旨いのにこぼしてしまってもったいなかったな」とか「この布巾のシミ落ちるかな」とか考えている。そう気づいたら急におかしくなって笑いだしてしまった。

それにしても、自分の周りにいる生き物との命のやり取りに関して、人間は不器用を通り越して無茶苦茶だ。それは、他の生き物に対してだけでなく人間同士に対しても同じだ。食糧分配の不均衡のせいで、このままでは世界中で毎日1万人が飢えて死んでゆくことになるという。食いきれない食い物を集めて捨てて仲間を飢え死にさせる動物なんか他にはいない。

締めの雑炊にするはずだったご飯は明日の朝ご飯にすることにした。

㉟プラごみのバカ

2020.11月末日

生ごみはミミズのお陰で本当に減ったけど、それに比べてとてつもない量のプラごみにはずっと悩まされている。スーパーで買うものは全てと言っていいくらいプラスチックの容器かフィルムにくるまれている。欲しいのは中身だし、そのために金を払っているのに、持って帰って中身を出したとたん、欲しくもない山のようなプラゴミが出る。

意地でもプラ容器に入っていないものだけ買って食べると宣言したうちのスタッフは、飢え死にしそうになってあきらめた。

輸入食材が60%を超え、肉も魚も果物も食用油や小麦粉やありとあらゆる加工食品が世界中から集められる、その遠い道のりを腐らせないで運ぶにはプラスチックが欠かせない。

そこまでしても、結局毎年100万トンが食べずに捨てられる。

一体何をやっているのだ?!

50年前まで、肉屋で経木や竹の皮に包んで売られた肉や、魚屋で新聞紙にくるんで売られた魚はその日のうちに食べ切ったし、豆腐屋から鍋に入れて買ってきた豆腐もすぐにそのまま火にかけた。藁に包まれた納豆は一粒残らずかき出して、あっという間に平らげた。

プラスチックが便利なのではなくて、プラありきの流通、販売、消費の仕組みを作るから、プラがなければ済まなくなってしまうのだ。

何を買っても、欲しくもないプラスチックという石油製品が付いてくる不合理を解消しなければ、食べれば食べるほど石油資源が減って川や海や空気が汚れ、炭酸ガスが満ちてくる。分かっているならやめようや。

㉞ミミズの餌

2020.10月末日

うちは生ごみが出ない。と言っても外食ばかりしているというわけではない。単身赴任だがほぼ自炊生活だから、それなりに食材の余りは出るはずなのだが出ないのである。買った食材は全て食べて残さないから、というか、食べ切れるものしか買わないと言った方が正確で、そのためにその日に食べるものをほぼ毎日買いに行く。

それでも、野菜の皮やお茶殻など、食べられない部分が残ってしまう。事務所にはそれを食べてくれる強力な仲間がいる。黒い箱に詰められた黒い土の中に暮らす3,000匹のミミズたちだ。彼らの食欲は旺盛でおよそ何でも食べてくれるが、卵の殻や果物の種や魚の骨などは食べられないので、それだけは生ごみとして市に収集していただく。

こういう暮らしを続けていると、食べ残すことがなくなるだけでなく、焦げ付きや油かすはミミズにやれないから、そういう料理はしなくなる。バナナの皮はいいけどミカンなどの柑橘類の皮は食べさせないほうがいいから買わなくなる。柿や蕪など旬のものは、ミミズが皮を喜びそうだからと、ついつい買ってしまう。鮭の皮は美味しいけど少し残しておくようになる。しまいには、スーパーのペットフードの棚の前で立ち止まり、いやいやいくら何でも、と思いとどまる。

最近、ミミズの好き嫌いが分かるようになってきたような気がして、少し怖い。


㉝生殺与奪

2020.9月末日

今や地球上の動物の9割が家畜だという計算があるそうだ。
それは重さで比べているらしいから、昆虫やそれよりも小さな微生物のことはひとまず置いといて、陸上の大型生物のほとんどが家畜だと言われると驚くが、それと同時になるほどと思う。
牛や豚を何百頭、何千頭と飼っている牧場にライオンやトラが1頭でも侵入すれば、たちどころに射殺されるに決まっている。家畜が増える一方で野生動物が減っているのは間違いない。

人間なんかよりはるかに昔から種を繋いできた野生動物たちは、自然界の法則に沿って進化し、繁栄し、衰退や絶滅を繰り返してきたのだろう。そうした動物たちがこの世の中に生まれて生きて死んでゆくのに理由や目的などなかったはずだ。

しかし、家畜は乳を絞られ卵を産まされ、挙句に食べられることによって、人間の役に立つという目的のために生まされて死んでゆく。
彼らを生かすも殺すも人間次第なのだ。
やがて100億に近づく個体数の人間が楽しく暮らすために、同じ空間と時間を共にするほとんどの動物達の生殺与奪の権利を握っている。
しかも、実は動物だけでなく植物についても同じことが言えるのだ。

人間はいったいいつの間に神様になってしまったのだろう?

まあ、人間同士だって労働力や戦士として飼い殺しにしてきたのだから、今更の感はあるし、食い合わないだけましだとも思うけど、念のために丸々と太った旨そうな老人にならないよう気を付けることにした。

㉜やり直し

2020.8月末日

久しぶりに東京へ。ここは生まれ育った街だから、コロナのためにしばらく離れていても羽田からモノレールに乗れば日常感が戻ってくる。
しかし、今回は様子が違う。平日の昼間なのにすいている車内。乗客は皆マスクをつけてうつむいている。窓の外はまだ暑いけれど抜けるような青空に秋めいた雲。これはいつか見た光景だ。記憶は一気に数十年飛んで昭和30年代。
まだ東京タワーが建っていなかったこの街の都電の車内が蘇る。その気分は「ああ、やり直しだな」。

終戦から10年ちょっと、「とんでもない失敗をやらかしてしまった」という後悔、打ちのめされた絶望と生き抜くための緊張感は解けてきたけど、やがて始まる高度経済成長の能天気やバブル経済のバカ騒ぎの予感もまだない無風状態。あの頃の空気のにおいが懐かしい。

にもかかわらず懲りもせず、その後散々無理をして爪先立って積み上げてきた何とかミクスの経済が、今度は感染症と気候変動という自然の仕打ちで崩れてゆく。

また「やり直し」だ。今度もまた着飾ってうまくもない無国籍料理を食べに行くのか、角の蕎麦屋のもりそばで満足するのか、もう懲りたはずのこの国の人たちは知っている、はずなんだけどなあ。

㉛.水掛け論

2020.7月末日

今年も暑い夏だ。そこへもってきてコロナなんて言う暑苦しい名前のウィルスがのさばっているもんだから、動きが取れない。じっと暑さに耐えていると気が遠くなりそうだからクーラーを焚く。ストーブじゃあるまいし冷房を焚くなんていう言うと昔の人みたいだな。エアコンの切り替えスイッチを冷房にして運転・・

エイ、面倒くさい「点ける」と、頭が少しはっきりしてきて変なことに気が付く。日本の電力は石炭火力発電に頼っている。
石炭火力発電はCO2を大量に排出する。CO2は代表的な温暖化ガスだから、排出されれば気候変動につながる。
気候変動の代表的な現象は温暖化だから、夏は北半球全体で暑くなる。暑いからクーラーを点ける。電力を使う。電気代を払う。電力会社が儲かる。あ、罠だ!

いやそうではない。暑いからクーラーが必要でそのための電力を作り出して売っているだけの話で、そのために発電すればCO2が出てしまうのだ。決してわざと温暖化を引き起こして電気の需要を作り出しているわけではない、という声が聞こえてくる。

これを水掛け論という。いや、あついからお湯かけ論だ。

あ、また気が付いた。
クーラーをつけると発電所の石炭を焚くことになるから、
「クーラーを焚く」は間違いではないんじゃないか?

㉚.人種区別

2020.6月末日

昔から私の周りには変わった人ばかりいて、自分と同じような人に会ったためしがない。家族も親戚もみんな不思議な人ばかり。

ベビーブーマーだから小学校も47人×9クラスでクラス替えがあったから、誰が誰だか覚えていない。結構仲が良かった連中は皆飛び切りの変人ばかりで、まともに話が通じた記憶がない。事務所のスタッフも選りすぐりの個性派コレクションだからどんどん入れ替わるし、飽きることがない。ここ山口で出会うじいさんたちは一人ずつ標本にして取っておきたいくらい変わり者ぞろいだ。

だから、外国に行っても外国人が来ても同じように変わっているから別にどうとも思わない。事務所のインターンだけでもスウェーデン、コロンビア、タイ、香港、インドネシア等出自は違えども、その変わり具合は日本人と何ら変わらない。ただ、私なりにその違いに興味を持つことはあって、こどものころから「大人になったら黒い色の人と結婚する」と言っていたらしいし、たまたま都電で隣に立っていたインド人の体が発する香ばしいカレースパイスに引きつけられて一緒に途中で降りてしまい、学校に遅れたこともある。

黒人の身体能力やリズム感、色彩感覚が素晴らしいという研究をしていた学生が、自分は黒人になりたいからアメリカに行きますと言っていた。応援していたけど、今はもう立派な黒人になっているのだろうか?

人種区別は興味深いかもしれないけれど、差別なんてもんはするのもされるのも真っ平だ。

㉙.アフターコロナ

2020.5月末日

「コロナ後の」、あるいは「コロナと共に暮らす」新しい生活様式の一つがデリバリだと聞いて思い出した。
昭和30~40年頃の東京の住宅街ではありとあらゆるものがデリバリされていた。新聞配達、牛乳配達はもちろん、八百屋、魚屋、肉屋に豆腐屋、酒屋に米屋にパン屋まで、毎日のように御用聞きにやって来て、台帳に書き留めた注文通り、その日のうちに運んでくれた。そう、サザエさんに登場する三河屋のサブちゃん、あんな感じの日常だったから、どの家にも勝手口があった。
たまには鍋継ぎとか包丁研ぎや竿竹屋といった変わったものも訪れたし、直せなくなった鍋や錆びた包丁は秤を持ったクズ屋のおじさんが廻って来て、すっかり引き取ってくれた。うちの場合は本屋まで来てくれて、おふくろ好みの作者の新刊が出るたびに教えてくれた。夏になったら金魚屋や風鈴屋も通ったし、氷屋は大きな氷の塊を鋸で引いて分けてくれた。オート三輪に新鮮な魚を載せた魚屋は、注文を受けるとその場でさばいてくれた。
私はいつも赤くて四角いホウボウが食べたかった。そうやって日常の需給バランスが取れていたし、それ以外に本当に欲しいもの、必要なものは休日にわざわざ身づくろいして買いに出かけた。それでよかった。何も問題無いではないか。

㉘.賢い人間

2020.4月末日

私たちホモ・サピエンスは、この地球上でネアンデルタール人と同時代を生きていた頃、どのように暮らしていたのだろうか?お互い仲が良かったのだろうか?喧嘩をしたのだろうか?

今とは比べようもないくらい人数が少なく、彼らにとって地球は広大だったから、めったに知らない連中と出くわすこともなかっただろう。やっと見つけた食べ物を取り合う争いごとぐらいはあっただろうけど、大掛かりな集団での戦いが始まるのはずっと後のことだろう。

人間が増えて地球が混んでくると、なんだかんだと理由を見つけて集落同士で争いはじめ、やがて部族同士、国同士の戦いへと進んでゆく。挙句の果ては二手に分かれて全員参加の総力戦みたいなことまでやってしまう。人間というものはなぜこんなに欲張りでいつもイライラしている喧嘩好きの動物になってしまったのだろうか?

それでも、仲間同士で争い殺し合うだけならまだしも、いつの間にか人間は寄ってたかって自然そのものに挑みかかっているではないか。その精緻極まりない仕組みを壊し、生命の多様性を犠牲にして自分たちに都合の良いものだけ手に入れようとしている。それが自殺行為だと気づかずに、人類は自然界の未知の脅威に必ず勝つなどと言っている。気が荒いばかりか頭が悪い。ホモ・サピエンス(賢い人間)とは名ばかりの厄介な生き物だ。

㉗.新型コロナウィルスにかった犬

2020.3月末日

毎年、年末から春先、ちょうど桜が咲き終わる頃までが私の花粉症のピークで、それは年間スケジュールに組み込み済みだ。マスク、ティシュ、服用薬や目薬の種類、洗眼、洗鼻、鼻のかみ方、くしゃみの仕方まで全て45年間のキャリアの中で確立されてきた。さらに帽子や上着の生地の選択まで、生活習慣というか、もはや風物詩となっている。

それが、今年はマスクが全く手に入らない。ポケットティシュも店の棚から姿を消した仕方がないから、鼻にトイレットペーパーを突っ込んで本を読んでいる。ところが今度はトイレットペーパーまで買えなくなった。これでは、読み終わったページを破って鼻に詰めながら本を読むしかない。

新型コロナウィルス感染予防のために手を何度もよく洗えとか、人と握手するなとか唾を飛ばすなとかいろいろ言われているが、今日、それがどれほど効果的なのか疑問に思えるニュースを聞いた。香港では飼い犬から陽性反応が出たという。犬は手を洗わないばかりか遠慮なくぺろぺろ舐めてくれる。もともと野生動物からうつったウィルスを人間社会の中だけで排除したり殲滅したりしたところで世の中から消えてなくなるわけではない。むしろウィルス君と共生するための免疫力をつけるしかないと思うのだが。

㉖.ミミズと私

2020.2月末日

事務所でミミズを3000匹飼っている。本当に3000匹かどうかわからない。3年前に広島で生ごみ処理用に大きな箱に一杯の土と一緒に買ったのだけど、その中に実際何匹いたかは数えていない。箱は二階建てで黒土が詰まっている。一階は寝室、二階が食堂。二階の床にたくさん穴が開いていてミミズ君は寝室と食堂を自由に行き来することができる。
二階の天井を開けて生ごみを入れてあげると食べてくれる。夏場は乾燥するのとコバエが入り込むのを避けるため、食堂の土の表面に新聞紙を一枚かぶせて霧吹きで湿らせておく。

さあ、持ってきたよと新聞紙をめくると、昨日蒔いた生ごみがきれいに消えて真っ黒い土が刷毛ではいたようにふかふかに平らになっている。

そうなると乱雑に切った汚らしい生ごみを放り込むのは気が引ける。野菜の皮やお茶がらや、魚のアラやなんかをトントンなるべく細かく切り刻んで、水気を切って持っていくようになる。そいつをなぜか彩りまで考えて均等に蒔いてやる。その上にうっすらと土をかけてあげると食べやすいようだ。その時使うヘラはミミズの体を傷つけないようにとブルネイで買ってきたココナツの殻製の角のない奴だ。
最近自分の食材を買うとき、無意識にわざわざくずが出る野菜などを選んでいることに気が付いた。これが本当の主客転倒?いやいや、もともとどちらが主でも客でもない。

㉕.役立たず

2020.1月末日

やけにぬるい正月が終わろうとしている。
山口の正月は初めてかもしれない。暮れから正月にかけて楠のオープンハウス小屋の修繕に掛りっきりだった。素人の手作りだからという訳でもないのだろうが、木造だから7年も風雨にさらされていればあちこち痛む。
今回はデッキの板が腐ってきたので危ないから張り替えた。人の出入りがなく雨が降らない時と言えば正月しかないのだが、実際には雨が降っててこずった。

自分はデザインのプロを自任して50年以上仕事をしているが、自分をプロだという人は、専門以外は素人だと言っているのと同じことなので、人生のほとんどは趣味の世界だ。料理も掃除も車の運転も、家の修理も何もかも、上手くできても社会の役に立っているとは言われない。

一方、仕事がうまくいって、会社が儲かって、経済が回って、社会が育って、でもその結果世の中が悪くなり、環境が悪化していっても、仕事ができれば社会の役に立つと褒められる。
それならいっそ、「役立たず」と呼ばれたいものだ。

成績が上がる、進学に役立つ、就職に役立つ、金が儲かる、出世に役立つ、健康に良い、長生きできる。そんなことには目もくれず生きて行ければどれほど良いか。
でも、身近なスタッフに「役立たず」と言われるのは嫌だから一生懸命デッキを張り替えた。

㉔.人類中心デザイン

2019.12月末日

人間中心デザインという考え方がある。
実際には複雑な仕組みを持った機械を、そんなこと全然わからない人が操作しなければならない場合に、どうやったら間違えないでできるかとか、間違えたとしても大問題にならないでちゃんとやり直せるかということを考えてデザインすることだ。まあ、平たく言えば牛丼屋の自販機はちゃんと使えないじゃないか、もっと分かりやすくデザインしろというようなことだ。

「宇宙船地球号操縦マニュアル」という1968年にバックミンスター・フラーという人が書いた、エコデザインを学び実践する人たちにとってはバイブルのような古典がある。フラーは地球を複雑極まりない仕組みを持った一つの大きな船のような機械にたとえて、人間は勝手にもっと早く動かそうと、絶対にしてはいけないことをし始めていると言うのである。石油などの地下資源を掘り出して燃してしまうことは、自分が乗っている木造船の船体の板をはがして蒸気機関の燃料として炉にくべてしまうような愚行なのだ。乗組員がそういうことをしないようにちゃんとした操縦マニュアルを作る必要がある。大急ぎで「人類中心デザイン」を考えて「地球操作マニュアル」を作らなければならない。

.寒くなると思い出す友人たち

2019.11月末日

小学生の頃わが家にいたココという中型犬は、白っぽい短毛に茶と黒のシミがついたような純粋な雑種で、ゆったりと落ち着いて優しいのに、野良犬や知らない人には毅然として立ち向かう最高の番犬だった。
私はその犬を年上のおばさんのように慕っていた。
そのココが最後に産んだ子犬たちの中の一匹を飼うことにした。長い黒毛を持ったルルだった。親に似ず賢くはなかったけど、おチャッピーで可愛いかった。
私が親元を離れて初めて飼ったポテトはシェルティ犬だった。エレガントな毛並みに似合わず、うれしいとキャンキャン鳴きながらぐるぐる回って止まらなくなるおバカな犬だった。雷が怖くて庭から飛び出して行方不明になって、一週間後に隣町の交番で飼われているのを見つけた時は飼い主を忘れたようだった。
最後に飼ったヨーヨーはシーズーで、初めての室内犬だった。その柔らかい毛をいつまででも撫でていたかった。おとなしい良い子だったが体が弱かった。

それぞれ12~15歳まで生きたから、私は50年間くらい犬と一緒にいたことになる。あと一匹、私が生き方を学んだトラという黒猫がいた。人生の友人は皆温かい毛でおおわれていた。

㉒.洪水が心配なのだ

2019.10月末日

以前、東京の多摩川に近い街に住んでいた頃、アパートの大家さんが話してくれた。「昔、このあたりは見張らす限り葦原が広がる湿地の中を電車がトコトコ走るばかりで、ほかには何もなかった」と。今ではそこにぎっしりと住宅が立ち並び、若者に人気がある商店街がどこまでも広がっている。
かつて湿地帯だった頃に比べれば、干拓や治水対策が功を奏して洪水の危険も少なくなったから、2キロほど離れた多摩川のことなどみんな忘れている。ところが、地球規模で進む気候変動が想定を超えるご豪雨をもたらせば、いつなんどき街が湿地に戻らないとも限らないのだ。
たかだか一世紀足らずで地形の構造が変わるはずもないのに、人は堤防を造れば自然を飼い慣らせるという気になって、どんどん街を広げて安心している。
河は溢れる、崖は崩れる。津波は来るし地震も起こる。安心なんかしてられない、と常に警戒しているのが一番安全なのかもしれない。

久しぶりにトコトコどころかゴーゴーと走る電車に乗って、想像の窓辺に広がる葦原を眺めながら一人で心配している。

㉑.虫と人間

2019.9月末日

フクラスズメ蛾の幼虫が盛んにイラクサの葉っぱを食べている。むしゃむしゃと一心不乱に食べている。近づくと音が聞こえそうだ。夏の間伸びに伸び茂った葉っぱは一枚残らず食い散らかされて穴だらけ。中には、よほど美味しかったと見えて茎だけしか残っていないものもある。試食を繰り返しているとしか思えないけど、背の高いイラクサの葉裏にとりついた芋虫がどうやってあちこち食い歩くことができるのだろう。
コガネグモが巣を張っている。デッキの床材の端に基礎を打って、スーと糸を吐きながら近くのスダチの木の葉に飛び移った。あんな小さなクモの目は30センチほど離れた葉っぱの位置を寸分たがわずとらえている。糸が一本張れれば渡ってこられる。二、三本張ったところで風が吹いてスダチの葉がそよぐ。強く吹けば糸が引っ張られる。クモの糸は強固なデッキの構造体に揺れ動くスダチの葉っぱを繋ぎ留めておけるのだろうかと考えていると、立ち止まったクモも同じことを考えたとみえ、すかさず判断を下して作業を中断。別のところに張り直し始めた。
激しい雨が上がった地面に長い蟻の行列ができている。中には白い卵のようなものを担いだ者もいる。行列の先が入り込んでいく竹の切れ端の下には、避難場所へと続く穴があるのだろう。水害の対応策としての引っ越しを感心して眺めた何日か後に、また大雨が降った。
翌日気づくと、また長い行列が丘の上の方に向かって伸びていた。
芋虫もクモも蟻も、考えることもやることもみんな人間とおんなじだ。ただあちらの方が根気強い。

⑳.移動する

2019.8月末日

人は移動する。渡り鳥は暑さ寒さを避けて食糧を探し子孫を残すために何千キロも飛翔するし、カタツムリも餌やより良い環境を求めてゆっくりと数ミリメートルずつ這ってゆく。人は何のために移動するのだろうか?縄文人はアリューシャンからやって来て小舟を操りながらインドシナや今のインドネシア辺りまで南下してクジャクの羽を持ってきていたという学説もあるように、想像を超える行動範囲を持っていたようだ。だが、ほとんどの人間は裏山でイノシシを追いかけていたぐらいがせいぜいだろう。今の人々が毎日学校に通ったり、家と仕事場を往復したりするのと変わらない。
お城通いの侍が、いざ合戦で遠征したり、会社員が海外転勤でネバーランドに飛ばされたりしても、多くの人には関係なかった。
ところが最近、観光という訳の分からない目的のために何億という人が世界中を動き回る。この移動がもたらす膨大なエネルギー消費のつけは気候変動というシャレにならない形で、じっとしている人間にまでもれなく回ってくる。
何とかしなくちゃというわけで、「人間が動き回るのをどうやって止められるか」国際会議を開くからとオランダに招待された。「そんな会議のために私が動いては矛盾するから行かないよ」、と答えた。即刻返事が来て、「それでは仕方ないから会議参加者がこぞって日本に行かなければならない」、と言うから、「わかった、行くよ」と返事した。

⑲.警備員

2019.7月末日

新幹線の警備が厳しくなっている。テロ対策なのだろう、車内を巡回する警備員がとても増えたと思う。
今回新山口駅から乗った東京行きの「のぞみ」の中でも、重そうな防護服を着てあちこちつかまりながら歩く小柄でご高齢の警備員さんの姿を見ながら、かえって不安になった。ところが大阪を過ぎたあたりから現れる警備員は見違えるほど若く体格が良く、左右の肩を大きく振りながらのっしのっしと歩いてくる。
表情も厳しく威圧感たっぷりな彼らが次から次へとやってくるのだ。ところが、ふと気づいてぞっとした。彼らの後姿を見ていないのだ。
京都から名古屋まで止まらないのぞみには途中で乗り込むことも、一端降りて前の車両に乗り換えることもできないはずなのに、次から次へと前からやってくる。いったい何人乗っているのだ。16両編成の先頭車両は防弾チョッキを着こんだ警備員ばかりが、ぎっしり乗っている。そして最後尾の車両は空っぽで、そこに一人また一人と巡回を終えた警備員が座って行くのだ、そんなことを考えながらウトウトしていると、「間もなく名古屋」、のアナウンスで目が覚めたとたんに、通路を通り過ぎて行く警備員の背中が目に入った。

⑱オリンピック・パラリンピックに反対する。

2019.6月末日

私はオリンピックに反対だ。まず、世界中からわざわざ一か所に集まって何かをするというイベントそのものに反対。北半球も南半球も運動するのにちょうどよい季節の一か月、マラソンはギリシャ、サッカーはブラジル、野球はアメリカ、卓球は中国、柔道は日本というように世界中で一斉に開催して、応援したい人は近くの競技を見に行けばいいし、あとはいろいろなメディアで観戦すればよい。一極集中で金儲けを企む制度そのものに反対。
もう一つは、なぜ誰も彼もが少しでも早く、少しでも強く、少しでも美しくと競い、争い、勝つことを目指さなければならないのか、というオリンピックの精神に反対。更に、体の一部に運動機能を損なう事情を抱えた人が、その不都合を克服してまで同じように競い、争い、勝とうとしなければならないのか?

もちろん、そうしたい人はそうすればよいのであって、それはそれで見る人に感動を与えるかもしれない。しかし、人と争わない。相手をやっつけてまで勝とうとは思わないというのも人の情で、そういう価値観こそこれからの人類には必要なのではないか?
多様性(diversity)と包摂性(inclusivity)はともにサステナブルな社会のキーワードだと言われる。しかし、価値観の多様性は口先ばかりで、軍事力でも経済力でも運動でも、「勝つ」という一つの方向性に皆の関心が向いてきたために現代文明は崖っぷちまで来てしまった。この期に及んでいまだに、みんなで勝つ、つまり誰も負けないという理不尽な掛け声をinclusiveと勘違いしている。私はいつでも食われて死にたいと願っているのに誰も食ってくれない。

⑰生き物が見ている世界

2019.5月末日

ユクスキュル・クリサートの「生物から見た世界」(岩波文庫)を読んでいる。様々な生きものがそれぞれの感覚や経験で認識している彼ら独自の世界(Umwelt=ウンヴェルト)を

この本では環世界と訳している。我々人間は無知なくせに自分勝手で独善的だから、自分たちが住んでいる世界は一つで、その中に犬や猫や虫や花が一緒に生きていると漠然と考えている。しかし、生物界のほんの一部でしかない人間が五感でとらえ、頭の中で作り上げている世の中と同じ世界を生きている生き物など他にいるはずもない。我々に近いと人が勝手に思いこんでいる犬でさえ、部屋の中や街にあるいろいろなものは障害物以外の何物でもない代わりに、人にはわからない事柄を観たり聞いたり嗅いだりして知っている。犬ですらそうなのだから、蚊や魚や花や木がそれぞれの感覚と行動でとらえている世界はどのような世界なのか我々には想像すらできない。その想像すらできない環世界に思いを巡らせて、自分たちには分からないことが存在するのだということに畏れを抱きつつ尊重する姿勢があって初めて、地球環境問題などという途方もない課題に近づけるのだと思う。我々の環境に変化を与えれば、想像もできない多くの生き物の環世界がいやおうなしに捻じ曲げられて、その多くが絶滅してゆく。少し想像力を持てばそんなことは容易に分かるはずだ。

⑯床屋談議

2019.4月末日

速いねと 床屋談議に 桜(はな)が咲き

端居子(たんきょし)の句である。「また今年も桜が咲きましたねェ。ああ、また一年経ってしまった、速いもんだな。去年は見ごろが短かったが、今年はしばらく持ちそうだな。」床屋の主人と客の会話。時によると隣で散髪中の客か、順番を待っている客か話に割り込んできて、今年の花見はどこどこが良さそうだとか、ソメイヨシノは短命らしいとか、床屋談議に花が咲く。私の行きつけの床屋さんとはもう30年以上の付き合いだから、ほぼ同じ会話を30回以上続けているに違いない。日本人はこうやって季節の変化を繰り返し確認しながら歳を数えてゆくけれど、赤道直下の人々はどうやって経年変化を読むのだろうか。きっと我々には

分からない時間のスケールを持っているのだろう。もちろん、花や虫たちは人間など及びもつかない正確さで気候の変化を読みつつ季節の風景を作っている。君には季節感があるのかとうちの犬に聞いてみたら、質問の意味が良くわからなかったとみえてポカンとしている。

それにしても、気候変動などという不気味な呪文が現実味を帯びつつある。床屋に集まっては、かつて春になると一斉に花を開いた桜の昔話に興じる花咲かじいさんの姿が目に浮かぶ。

狂い咲き 狂わせ咲きよと 子に言われ

⑮読みすぎ

2019.3月末日

飲みすぎると胃腸をやられた挙句の果てに頭をやられるが、読みすぎると眼をやられるが頭は良くなるという。しかし、そんなはずはない。確かに読書は人を賢くするし人生を豊かにもするかもしれないが、それは幻想で実際には何も変わっていない。春になれば花が咲き蝶が舞うといってウキウキするが、杉の花粉を吸いこめばたちまち覚醒する。冬だって秋だって夏だっていつだって木も草も生きているし、虫たちも生まれては死んでゆく。雪や氷の中にあっても生きるべきすべての命は生きている。それでなければ命はつながらない。熱帯地方には四季などないけれど、しょっちゅう生まれてしょっちゅう死んでいる。そんなことも分からなくなってしまうのは、学校で本を読んで四季の美しさとか永遠の命だとか現実から目をそらす方法を学ぶからで、実際には淡々とした面白くもなんともない命のバトンタッチが年がら年中繰り返されているに過ぎない。自分もその一部であって一部でしかないということを忘れなければ、本を読んでも頭をやられないで済む。本だけではない。演劇も映画も音楽も歌も詩も絵画も工芸も何もかも真実を忘れさせる麻薬にすぎない。それだからすべてが面白おかしく楽しいのだ。ああ、また沈丁花の香りが私の頭を狂わせる。

⑭とうとう怒らせちゃった

2019.2月末日

世界中の子どもたちが怒っている。

地球温暖化と気候変動は20年前のシナリオ通りに進行していて、この先に見えてくるのはとても耐えがたい不安定で危険な自然環境と、不安に満ちた社会の中で暮らさなければならない人間の未来だ。その時の住人は一体誰なのか?それは金に目がくらんで何億年も地底で眠り続けた石炭や石油や天然ガスを掘り出して地球の表面を温暖化ガスとプラスチックごみで覆いつくし、森の木を切り倒して金になる植物や動物を育てて売り飛ばし、食い尽くして死んでゆく大人たちではなくて、今の子どもたち、そのまた子どもや孫たちなのだ。

「そうなることはわかっていたのにこれまで何も手を打たず、こんなにしといてまだ自分たちの利益のことしか考えない大人たちをどうして信じることができるの?そういうことは国連の偉い人たちに任せておいて、あなたたちは学校で勉強をしていなさい、と言われても何のための勉強なのかさっぱりわからない。私たちが教室にいる間にも世界はどんどん悪い方に進んでゆく。学校になんか行っている場合じゃないから、みんなで教室から飛び出して一緒に声を挙げよう。私たちの未来をめちゃくちゃにしないでって。」

50年前に気づいていながらなんとかしようともがきながら役に立てなかったおじいさんは申し訳なくって情けなくって、でも死ぬまでみんなを応援するからね。

⑬元号

2019.1月末日

気が付いたら来年になっていた。昭和が終わって行く頃のことを思い出す。
街中のネオンが消えた1989年の正月。東京タワーも夜は姿を消していた。
戦争で始まり、戦後の大騒ぎがバブル崩壊で終わりを遂げた昭和。
昭和天皇の崩御と大喪の礼。テレビでは、黒い幕が雨で濡れて風に吹かれる暗い画面が音もなく流され続けていた。
それは、20世紀から21世紀へと時代をまたぐプロローグのようでもあり、静かな反省の祈りのような時間であった。
垂れ目パンダのような赤縁眼鏡を掛けてあまり上手くない平成という字が書かれた色紙を掲げた小渕恵三官房長官の顔はちっとも面白くなさそうだった。

今年変わる元号は何になるのだろう。
いっそのこと、それこそパンダの名前のように国民から公募すればよいのにと思う。
平成という時代、昭和のバカ騒ぎのしっぺ返しで不況が続き、環境問題が暗い影を落とし、度重なる自然災害見舞われながら、じっと耐えてきた辛抱と反省の平成に代わって、私ならどんな年号を応募するだろう。

んんん・・と考えて「元気」がいいと思いついた。

2019年は元気元年だあ!
(注:東京オリンピックとは関係ありません。私はあれには反対ですから、念のため。)

⑫エコデザイン

2018.12月末日

年末になるとエコデザイン、つまり環境に配慮したデザイン・設計に関する学会や展示会が開かれる。1999年に開催したEcoDesign’99に私も実行委員会の一員として参画して以来毎年参加していたこの学会も20年近く続けるうちに、欠席することが多くなり今年は久しぶりに顔を出すことにした。発足当時は中堅だったはずの私もほとんど長老の仲間入りで懐かしいやら情けないやら、身の置き所に苦労する。それにしても21世紀を目前に控えて地球環境問題に立ち向かった頃の緊張感を維持しているのは高齢者ばかりで、若手の研究者にはなぜか覇気が感じられない。茹でガエルのたとえ話のように危機的状況が常態となってしまったせいなのだろうか。そういえば最近ヨーロッパで話題のExtinction Rebellion(エクスティンクション・リベリオン)、つまり人類滅亡阻止というような名前の環境活動集団もその中心メンバーは中高年が多い。そう思っていたら、スウエーデンの友人からCop24が開かれているポーランドや国連まで出かけて、地球温暖化を食い止めるために行動を起こそうと果敢に呼びかけているGreta Thunberg(グレタ・サンバーグ)という15歳の少女のニュースが入ってきた。彼女のスピーチは明快そのもので、その姿は目が覚めるようにすがすがしい。ああ、時代というものは順送りに段々と変わるものではなくて、leapfrogといわれるようにカエルが跳ぶがごとく一気に変化するものなのかもしれない。一少女にそんな期待をよせてしまうほど状況はひっ迫している。

⑪にゅうかん

2018.11月末日

入管法改正案とかいういい加減な法案が国会を通ったらしい。人口減少と高齢化で生産人口が減って社会経済が立ち行かなくなるから海外から労働力を輸入しようなどという、極めて自分勝手な考え自体間違っている。私がアメリカ、オレゴン州のポートランドに住んだのは6歳の時だった。引っ越した翌日に、チャキチャキヤンキーのお向かいさんが飛んできて、全身で歓迎の気持ちを表しつつも、僕ら兄弟の坊ちゃん刈りの頭を坊主にして、半ズボンをジーンズの長ズボンに履き替えるよう厳しく言いつけて帰って行った。その通りにして、全く言葉がわからないから家の前の縁石に腰かけていると、周りの子どもたちが集まってきてあっという間に遊び仲間だ。半年経つとみんなと同じにしゃべっていた。小学校に入って算数の時間に先生が九九を教えても誰もできない。私が勝手に立って行って黒板いっぱいにインイチガイチから九九八十一まで一気に書いてやると、たちまち学校中のヒーローになって休み時間に3人も女の子からプロポーズされた。斜めお向かいさんはお母さんがイギリス系、お父さんがドイツ系の移民だから夫婦げんかが絶えないと近所で笑っていた。私がそのままあそこに住んでいたら、ごく自然にアメリカ国籍を取っていただろう。日本に来て日本に住む人には他の日本人と全く同じ権利と義務を与えるべきで、それができないなら鎖国をしていればいい。

⑩とうきょう

2018.10月末日

涼しくなると思い出すのは、毎年11月3日の文化の日に祖父に連れられて行った明治神宮。私が子供のころだから昭和も半ばのことだけど、青山通りから右に曲がった途端、表参道の並木が明治通りの交差点まで真っすぐ下って、また少し上ったあたりに神宮の森がシンシンと控えるばかりで、他には何もなかった。世界中のファッションブランドが軒を連ねる今の賑わいはいかにも嘘っぽい。

私の家があった麻布から近いので、祖父はよく近くの六本木辺りへ朝の散歩に連れて行ってくれた。もちろん高速道路や高層ビルなど何もなくて、植木屋や材木屋のほかには和菓子屋が一軒あって、芭蕉の句だという(本当かな?)「鶯をたづねたづねて麻布まで」という色紙が張ってあった。かつては鶯の初音を求めて風流人が遠出をした、のどかな里山だったのだろう。
それがいつの間にか、日本中から、外国からも次から次へとよその人がやってきて東京をやかましいばかりで形の定まらない街に変えてしまった。

今、地域のデザインに関わりながら地方活性化などという言葉を聞くと、本当にそんな必要があるのかと考えてしまう。東京の真ん中でカランコロンと下駄を鳴らして歩いた気分のいい朝はもう戻ってこない。

⑨往生際の悪さ

2018.9月末日

1980年代以降使われてきたsustainabilityという言葉ほど重要でありながらあいまいな言葉はない。情緒的で客観性に乏しく、いかがわしくて押しつけがましいと感じる人も少なくない。今の時代を批判的に解釈するうえで欠かせない、グローバリズムや格差社会、環境問題など、他の言葉は抵抗なく使えるのに、サステナブルとかサステナビリティはなぜ「いかがわしい」と感じられるのだろうか?その原因は「持続可能」という日本語訳にあるのだ。Sustainabilityという言葉には続けられる、維持できる、耐えうるなどの意味があるけど、今の世の中を語る言葉として使われる場合に限って、実は、私たちの今の文明社会はもはやこれ以上続けられませんよ、次はどうしましょうか?という前置きがあってのことなのだ。それを日本語で持続可能と言い換えてしまうと、今の社会や経済や暮らしやらを何とか続けるためにどうしたらよいのかという議論にすり替えられてしまう。「さあ、おじいちゃん、お迎えが来ましたよ、遺産はどうしますか?」と聞かれているのに、「まだまだ未練があるから金借りてでもなんとかならないか?」とごねている往生際の悪さは、日本の言葉の美学にそぐわない。

⑧曲がったストロー

2018.8月末日

世界中でプラスチックのストローを使わない運動が拡大中だ。鼻にストローが刺さった亀かなんかの写真が引き金だとかいうけど、発端は何であれ、なぜストローなのだろうか?
もともとストローはその名の通り麦わらだったし、1950年代までは紙製の筒だったのだからそれに戻せばよいわけで、現に今でも普通に買える。
東南アジアでは細いバンブーを使うし、別にプラスチックである必要はない。吸い口の近くが蛇腹になっていて曲げることができるのは、一杯のジュースか何かを恋人同士で飲むために工夫されたデザインなのだけど、曲がらなければお互いの額が近くなってますます結構なはずだ。最近は使い捨てない金属製やガラス製のマイ・ストローも売られているが、あの細い管の中をどうやって掃除するのかと考えると、あまりいただけない。

いずれにしても、ストローが無いからといって特に困るものではないし、やめてもらっても一向にかまわないのだが、その前に使い捨てプラスチックのカップや蓋をやめなければだめだ。間違ってもストローなしでも飲みやすいプラスチックの蓋なんかをデザインするのだけはやめてほしい。これ警告ですよ。

⑦氷も溶ける暑い熱い夏の戦い

2018.7月末日

大変な暑さである。それに加えて洪水、竜巻、旱魃と、次から次へと異常気象のニュースの嵐だ。WMO世界気象機関は7月17日ノルウェー北部の北極圏で33.5℃を記録したと伝えている。もちろん観測史上最高気温だ。北極圏の海面温度が急上昇し、高さ100メートルを越える氷山が漂流し始めて海辺の村に迫るような事態も起きている。
こうして、1980年代からずっと言われ続けて誰の耳にも「聞き飽きダコ」ができた地球温暖化が理屈ではなく現象として現れ始めると、にわかに元気づく連中がいる。
その時儲かっていれば、将来何が起きようとそんなことはどうでもいい、不都合なうわさ話に耳を貸して金儲けの機会を逸するなどは愚の骨頂であると思っていた、その同じ連中が、危機を目の当たりにするや翻然、投機買いに走るのである。
「大氷山を削ったかき氷を売って村を救おう」ぐらいのことは平気で言うし、実際にやって見せるかもしれない。私はこういう馬鹿垂れ人間が大好きだ。好きすぎて抱きしめて絞殺してやりたいほどだ。

しかし、本気で許せないのは、何をすれば気候変動につながり、何をしなければそれを防げるのか、すべて承知の上で地球温暖化シナリオを仕組んできた連中だ。そいつらの裏をかくための戦略と戦術こそがサステナブルデザインなのだ。さあ、いよいよ暑い熱い戦いの幕が開く。

⑥コミューン

2018.6月末日

都会のビルが取り壊されると、気取った街並みの裏側が丸見えになるから面白い。東京青山通り、表参道の交差点近くのぽっかりあいた空き地に、仮設の飲み屋や屋台がいくつも建って、テントの中には雑多な椅子やテーブルが並んでいる。ちょっとした路地や自由大学という学校まであるその界隈(かいわい)にはCOMMUNE 2ndという名がつけられている。
ここで昼からビールを飲んでいると、宮城県石巻の津波で穴だらけになった街角に生まれたビニールテント街を思い出す。あの頃店を開いたのも客としてやってきたのも若者たちが多かった。金を持たない空腹はたまたま居合わせた大人が満たしてやっていた。そこには、同じ体験や想いを持った人たちが自然に集まる小さな共同社会、コミューンのような空気感が満ちていた。
都会には常に表と裏があって、面白いのは裏の方に決まっているから、表面に穴が開くと人が集まってくる。日本はこれから人が減って、街の様子も変わるだろう。地価が下がって空き地が増えたり、ピカピカの看板が古びたり、ほころびが目立つのは歴史のなせる業だからよしとして、水や施設の安全など、これまで築いてきたインフラを根気よく整備しながら隙間が多くて風通しの良い街に変わってゆけたらいいと思う。

⑤ヘッドハンター

2018.5月末日

最近仲間と話していて、求人難の昨今、ちまたでは転職を仲介するヘッドハンティングが横行しているという話になった。すると同席していたインドネシア人が、ボルネオ島にはまだ本物のヘッドハンターつまり首狩り族がいるという。

太平洋戦争中には侵略する旧日本軍の首も取ったという勇猛果敢なイバン族の長老の中には、一つや二つ狩った経験がある人がいて、そのコレクションを見せてもらうこともできるらしい。面白いのは、インドネシアでは今でもカリマンタン(ボルネオのインドネシアでの呼び名)出身の男性と娘が結婚することになると、家族は妙に緊張して気を遣うらしい。

ここではヘッドハンターが主役なのだが、リクルート的にはヘッドハンティングされるほうが話題の主だ。しかし、その人は以前の会社で頭に例えられるような賢い仕事をしていたから競合会社などに目をつけられて狩られる訳だが、切り離された首が元の体に付いていた時のように役に立つかどうかはなはだ疑わしい。

頸のすげ替えで増えるのは奇妙なコレクションばかり、というようなことにならないものかと、どこから頭でどこから胴なのか判然としないミミズのようなフリーランサーは余計な心配をするのだが。

④花粉病

2018.4月末日

大学時代の数年間を杉木立の中で過ごした後、卒業して都会に住むようになってから発症し、以来40年以上花粉症を患っている。当時は原因も分からず病名もなかった。洟が止まらず鼻血が出るから耳鼻科に行けば鼻炎、目が痛痒くて眼科に掛かれば結膜炎、咳やくしゃみが出て頭痛がすれば内科で風邪だろうと言われた。

年季の入った花粉症患者である私の場合、毎年暮れには兆候が表れ、スギにはじまりヒノキへと乗り換えながら、桜が散るまでの三か月余り、三寒四温の歩調に合わせ、マスク、目薬、箱ティッシュ、鼻洗浄に抗ヒスタミン剤と、薬局の季節商品を買いあさる春がやってくる。

戦後、杉の苗木を植えさえすれば一本いくらで補助金が出たので、山といわず谷といわず、岩の上に土をかぶせてまで隙間なく植えたという。誤った植林政策の結果、これだけ長い年月、延べ何億人もの患者に苦痛をもたらしてきた国民病をいつまでも花粉症などという無責任な名前で呼ばないで、潔くも重々しく「花粉病」と名付けるべきだと主張したい。

私は今日もまた、水をはった洗面器に顔を浸けて目玉をパチクリ洗いながら、花粉などとは縁のない金魚であった前世を懐かしんでいる。

③壁がこわい

2018.3月末日

7年目の3.11がやってきた。津波が襲った翌月に宮城県の石巻にボランティアで入って以来、被災地に何十回と通いながら被災地の変化を見てきた。人口減少と過疎化が進む日本の中で、あの災害をきっかけに失ったり離れたりした人が戻ってくるということは考えにくい。復旧とか復興とかいうけれど、本当は元に戻すのではなく、これまでとは違う新たな町づくり、新興でなければならないはずなのだ。コンパクトで住みやすい町、将来に向けて持続可能な新しいコンセプトの町づくりが行われるべきだとずっと考えてきたし、そういう意味でのお手伝いがしたいと思って通ってきた。ところが実際には広大な空き地の先に津波除けの巨大な壁がどんどん建てられている。総延長数百キロという三陸のリアス海岸から福島にかけて高さ10~15メートルの壁や堤を建て込んで、海の見えない町を作っているのだ。理論的にはすでに起きてしまった東北以外の、今後津波が来るかもしれない日本中の海岸に同じものを作らなければおかしいわけで、だとすれば2万キロを超える。地球一周の半分の長さだ。自然と共生するサステナブルな社会などと言いながら、全く逆なことを平気でやるこの国のセンスのなさには情けないのを通り越して恐怖を覚える。津波も怖いがもっと怖いのは自然に抗って勝てると思っている人の心だ。


②ブルネイ

2018.2末日

ブルネイに行ってきた。Brunei Darussalam(ブルネイ・ダルサラーム=サンスクリプトとアラビックで「船乗りの安らぎの住み家」というような意味)が正式名称のこの国はマレー半島の東にあるボルネオ島の北西の端に位置する小国だ。
インドネシアではカリマンタンと呼ぶこの大きな島の北西部はマレーシア領になっているのだが、その中の海際にちょこんと飛び地のように存在する、三重県ほどの大きさの独立国だから普段あまり話題にならない。
でも、東南アジア一の金持ち国だとか、税金がないんだとか、サルタン(王様)が自動車好きで世界の高級車1000台のコレクションがあるとか聞くと、ああ、あの国か、と思い当たるでしょう。
たまたまサルタンのおうちの前の海で石油が湧くことにイギリス人やオランダ人が目を付けたことから始まった石油産業が人口40万人のこの国を豊かにしているのだが、そこで一体、私は何の話をすればよいのか、珍しく悩んだ。
石油に頼っている経済はサステナブルではないですよ、なんて言ったところで、その最大のお客が日本なのだから話にならない。でも、本当のことだからそう言った。

そうすると、美しいヒジャップを身にまとった女性の姿が目立つ聴衆は、「その通り」と頷くのであった。お金持ちは上品で優しく賢いということを知らされた旅であった。
それに引き換え腹を減らした私たち日本人一行はレストランに急ぐあまり美しい芝生で仕切られた高速道路を走って横切るという愚挙を犯してしまった。自動車専用道路は高架か、せめて柵があるだろうという日本の常識は単なる思い込みであるということを思い知らされたのである。

①アレッポの石鹸

2018.1月末日

私は風呂ではもっぱらアレッポの石鹸を使っている。たまたま店で見た時になんとなく良さそうで、使ってみたら思った以上に良かったから手放せなくなった。説明書によると何千年も前からシリアに伝わるやり方でオリーブとローレルの油から作られる石鹸ということなので、なるほどと納得していた。

ところが、ニュースによるとアレッポはISISの活動拠点らしい。そこで作られる決して安くない石鹸を何十個も買いたしてきた私の金は、もしかしたら彼らの活動資金になっているのだろうか、という疑問がわいてきた。私が毎日風呂で泡だらけになるたびに誰かの命が奪われて行くのだとしたら極めて不愉快だ。しかし、もしかしたら石鹸職人とその家族たちはISISの支配下でも必死で石鹸を作り続けることでなんとか暮らしてゆけているのかもしれない。それなら応援しなければならない。さて、どうしたものか。 

最近、エシカル・コンサンプション、つまり倫理的消費という言葉をよく聞くようになった。倫理的に正しいと思う物やサービスを使おうということなのだが、さて、こんなとき、どうやったら倫理的に正しい行動がとれるのだろうか。

私の場合は調べることにした。まず、石鹸のラベルに表示されている輸入元や発売元に電話をかけて聞いてみる。通じなかったり、知らないと言われたりで、らちが明かない。ネットや広告など片っ端から調べてゆくが分からない。

使っている石鹸が段々ちびてきて、このままゆくと風呂で体が洗えなくなってしまうという頃に、ある薬屋の店頭で山積みになっているアレッポの石鹸を見つけた。表示にあった、いつものとは違う電話番号にかけてみたところ、やっと事情がわかった。

その石鹸の作り手は戦乱のアレッポを抜け出して隣国に逃れ、苦労の末同じ製法で作り続けているとのこと。ああ、それならばと倫理的に納得して5、6個買ってきたので、安心して泡だらけになれる。

しかしながら、ISISの側こそ倫理的だと考える人も少なからずいるということを考えると、倫理的消費と言ってもなかなか一筋縄ではいかないのが悩みだ。